Susanが生涯ヤマハファンとなるきっかけとなった出来事を披露します。
遡ること45年、私が高校1年生の冬(1971年)、自動二輪の免許を取って、ヤマハAT125を親に買ってもらってすぐの頃の話です。
初めてのバイクの話はこちら
ちょうどその頃の懐かしい写真がありました。
↓ 昭和46年高校生の頃。中央の長髪が私
私が跨がっているのが、人生初めてのバイク「AT125」です。
免許取り立ての冬、長い手編みのマフラーを首に巻いて福岡県八女の国道3号線を走っていました。
その時、毛糸のマフラーが首からスルーっと離れて行ったと思ったら、急にバイクが止まってしまいました。
「何でだろう?」とバイクを下りて見てみると、首に巻いていた毛糸のマフラーがチェーンに巻き込まれてボロボロになり、その噛み込み抵抗でストップしたのでした。
もう押しても引いても動きません。
昭和46年頃ですから携帯電話どころか、公衆電話もほとんど無い時代。
冬の夕刻で、あたりはもう暗くなり始めていました。
田舎で近くに民家も無いし、「どうしたらいいんだろう?」と途方に暮れていた時、救いの神が現れました。
シルバーに青のラインが入った「YAMAHA」のトラックが私の前を通り過ぎて、バックして戻って来てくれました。
↓ 今、思えばこんな色合いのトラックでした
(写真は13年後、1984年頃の私ですが)
トラックから下りて来られた中年のちょっと小太り(すみません)の男性は、青いYAMAHAの作業服を着ていらっしゃいます。
「どげんしたとね?」と筑後弁で声を掛けられ、チェーンに噛み込んだ毛糸のマフラーを見たこの方は、すぐさまトラックから工具箱を出して来られました。
そしてあっという間にチェーンを緩めて繋ぎ目を切り離して、毛糸の束を全部きれいに取り除いてくださいました。
これでまた元通りに走る事ができます。
まだ高校1年生だった私は御礼を言うのが精いっぱいで、お名前や会社を聞くことまで気が回りませんでした。
「よかよ、よかよ。気をつけて行かんね」と私に言って、そのトラックは走り去りました。
まさに「救いの神」のこの方が誰かを知るのはそれから10年後の1981年、私がヤマハ発動機に入社して九州の社員総会に出席した時です。
その会場に「救いの神」がいらっしゃるではないですか!!!
10年経っても顔と体型は忘れもしません。
お名前を聞くと「伊東さん」という方で、サービス部門の方でした。
懇親会でお酒を飲みながら、伊東さんに「10年前のこの事を覚えていらっしゃいますか?」と聞いたところ、「いつもの事やけん、覚えとらん」とおっしゃいます。
きっと覚えていてもこうおっしゃるシャイな方なのではないかと察しました。
根っからの技術屋さんなのでしょう。
この「伊東さん」にマフラー巻き込みを救っていただいた事が、この先も私がずっとヤマハファンになり、10年後には転職してヤマハ発動機へ入社する心を支えてくれていたのだと思います。
残念ながら「伊東さん」の写真はありませんが、45年以上が過ぎた今でも、あの日の光景と伊東さんの顔がはっきりと目に浮かびます。
「伊東さん」は私の人生に大きなインパクトを与えてくれた恩人です。
[おことわり]
今回は実名を使わせていただきました。
「Iさん」では真意が伝わらないと思ったからです。
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